2019年4月23日
  • Multiple Intelligences meet here for Learning.

初めての沖縄

3月末、私は仕事で沖縄へ行きました。私にとっては初めての沖縄です。学校を3校お訪ねする合間に、どうしても行きたかった所に立ち寄り、一泊二日の短い滞在を終えました。動ける範囲が限られていたこともあり、行きたかったと同時に、ここしか行けなかった所でもありました。その一つは首里城で、もう一つは海軍壕公園でした。

那覇空港から延びるモノレールは、終点の首里城まで約30分で走ります。私にとって意外だったのは、このモノレールに沿ってぎっしりと市街地が続いていたことでした。沖縄を知らない私は、もっと緑が多い風景を想像していました。私の住むJR常磐線沿線の方が緑が多い位です。


2日目の朝早くに約束していた学校を訪ねた後、首里城に向かいました。首里城は復元されたものとは言え、思っていたより大きく堅牢で中国風、庭園の草木は南国にいることを感じさせてくれます。城壁越しに丘の緑と遠方の海が見え、城内に流れる三振の音色に混ざる鳥のさえずりを聞いていると、しばし時を忘れます。

首里城を1時間半で切り上げて、海軍壕公園に向かいました。モノレール沿線から南にやや離れたところ、那覇市の南西、豊見城(とみぐすく)にあります。公園内の小高い丘に登ると周囲を一望できます。

この風光明媚な丘の地下に、旧海軍司令部壕があります。昭和19年に旧海軍が、450メートルあったと言われる司令部壕を作りました。旧陸軍が、首里城の地下に置いた司令部を昭和20年5月に撤退した翌月、海軍根拠地隊司令官の大田実少将(戦死後中将)は他の将校や多くの兵士ととも、海軍司令部壕で自決しました。陸軍の牛島満中将(戦死後大将)も間もなく自決します。

大田実少将は、自決直前の海軍次官宛の最後の電文で、沖縄の人々の協力と犠牲を訴え、戦後のために次のように打電しました。

一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ 沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

旧海軍壕司令部壕の資料室には沖縄戦の様子が克明に掲示されています。この資料を見て、私は沖縄戦の犠牲者が20万人に上っていたことを知りました。多分数字はどこかで聞いていたかもしれません。それに実感が伴っていなかったのだと思います。この数字は東京大空襲の2倍です。関東に生まれ育った私には東京大空襲の方がいくらか「近い」もので、その10万人という犠牲者の数は頭から離れません。しかし、その倍の犠牲者を出した沖縄戦は、東京大空襲以上に知識としてしか、私の中に入っていなかったのでしょう。焦土と化した那覇の写真を見ながら、モノレール沿線に緑が少ない理由がわかりました。自決前にあのような打電ができる大田実少将は、立派な人だったのだと思います。しかし、当時の沖縄の人にとって、望んだことでもなく、あまりにも大きな犠牲です。

海軍壕公園から、最後の訪問先(これは仕事です)へ向かうため、近くの停留所でバスを待ちました。快晴で気温も程よく、車の通りも少ないので静かでした。私一人、バス停に佇みながら、20万という数字が自分なりに実感されていく時間でした。

移動のため昼食を食べていなかったので、仕事が終わった後、県庁近くの店で夕飯を食べ、資料室で那覇空港が旧海軍の小禄飛行場だったことを知りつつ、20時過ぎのフライトで羽田空港に向かいました。

初日にお会いした学校の先生から、お薦めの沖縄料理の店を伺い、その夜食べに行きました。沖縄料理は関東でも食べられます。しかし、現地で食べるゴーヤチャンプルーは関東の店より味が濃くなく、素材が生かされていました。もっと強い味を想像していたので、一層美味しく感じました。